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突然の事態に家老たちが口々に声を上げると
「狼狽えるでない──。戦意を無くした者を無理やり戦場に連れて参ったところで、戦力になるとは思えぬ。
出陣せぬ…、それならそれで一向に構わぬ。良いか!我らは予定通り明日出陣致す。やる気のない者になど構うでない!」
林兄弟の出兵拒否など取るに足らぬ事とばかりに、信長は主君らしい凛然たる態度で言い放った。
信長がここまで言い切ってしまっている以上、家老らにそれを覆す手立てはない。
信長が道三を信じるように、彼らもまた、この破天荒な主君を信じて付いて行く他なかった──。
林兄弟が与力(よりき)である荒子の前田与十郎の城へ退去したという話を漏れ聞きながら、
翌二十一日、信長は“ものかは”なる気に入りの馬に乗って、威風堂々と出陣した。
その日は熱田に一泊し、翌日には今川勢の標的となっている緒川城へと赴くべく船で海路を進む予定であった。
ところが
ゴォ…、ゴォォォ……
予想外な事は重なるもので、翌二十二日は朝から凄まじい強風に見舞われていた。
「かように風が強くては、とてもではありませぬが船など出せませぬ!」
「このような状況で船を出せば転覆の大事に至るのは必定!どうか、渡海は明日に持ち越されませ!」
船頭や舵取りたちも、当たり前のように船を出すのに猛反対した。
しかし信長は
「かつて、源義経と梶原景時(かじわらかげとき)が、逆方向におよぐ逆櫓(さかろ)をつけるか否かで言い争うた折にも、
これくらいの大風が吹いていたであろう。構わぬ構わぬ、早よう船を出すのだ!」
と言って、強引に出港。
幸い大きな被害もなく、本来ならば二十里ほどかかる道のりを、僅か半刻(約1時間)で押し渡り、無事に着岸したのである。
「──といった次第にございまして、殿はその翌日、緒川城にて水野様のご子息・信元様とお会いになられて、
近辺の様子などを詳しくお伺いになり、そのまま城中にお泊まりになられた由にございます」
「左様であったか。 …にしても、源義経の話を持ち出されて無理やり船を出させた辺りなど、ほんに殿らしい」
濃姫が三保野を通じて、此度の戦の詳細を伺ったのは、それから三日後。
今川勢との勝敗がついた後の、同月二十五日のことであった。
「そして昨日、殿は夜明けと共にご出陣あそばされ、今川勢のおわす村木の砦を攻撃なされたのですが、その折のご布陣分けが、これまた殿らしゅうて…」
「聞いておる。堀が非常に深き、城内で最も堅固な南方を自らお引き受けになられたとか?」
「そうなのでございます。砦の北方は天然の要害で、守備兵もいなかったらしいのですが、
大手門(表門)のある東方は叔父上の信光様に、搦手門(裏門)の西方は忠分様にお任せになられて、殿は最も過酷な南方を受け持たれ、兵を配置なされたのです。
若き親衛隊方は我劣らじと堀を登り、突き落とされては這い上がるを繰り返されたそうで、負傷した者、死んだ者の数も分からぬ程であったとか」